土佐勤王党

一藩勤王を唱え、武市瑞山が文久元年(1861年)8月に結成。
坂本龍馬、中岡慎太郎といった面々も含め、190余名が加盟。(後に名簿から削除されたメンバーもおり、最終的な名簿には192名でした。)
そのメンバーのほとんどが郷士、足軽、庄屋といった下士層で構成されています。

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海援隊

江戸時代後期の幕末に、坂本龍馬が中心となり結成した浪士結社であり、私設海軍、貿易会社として活動した。

海援隊は亀山社中(亀山隊)時代を加えても、慶応元年(1865)閏五月から慶応四年(明治元年・1868)四月までの 約三年間に亘る、比較的短期間の活動であった。

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土佐藩

土佐藩の領域は戦国時代末期には長宗我部氏が治めていた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて長宗我部盛親は西軍に与し改易となった。豊臣氏恩顧の大名で遠江国掛川(現在の静岡県掛川市付近)を治めていた山内一豊は東軍(徳川家康方)に味方したため大幅な加増を受けて、土佐一国を与えられこの地を治めることとなった。以来、明治時代初頭まで山内氏が治めた。

土佐には一領具足と呼ばれた長宗我部氏の旧臣が存在しており、彼らは藩政当初より新領主に馴染まず反乱を繰り返した。山内氏は藩政の中枢には彼らを入れず高知城下に住む山内系の武士(上士)と、長宗我部氏の旧臣(下士)の二重構造が幕末まで続いた。

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維新後の土佐藩

薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結び倒幕運動を推し進めていた幕末も大詰めの時期、公議政体論を主張し将軍の政権返上を政治路線として考えていた土佐藩は、1867年(慶応3年)10月3日に将軍・徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出しました。

慶喜は京都・二条城に在京諸藩の藩主・家老職を招集し、そこでの会議で大政奉還の上奏文の提出を決定、11月9日(旧暦10月14日)に朝廷へ上奏文を提出しました。 そして翌11月10日(旧暦10月15日)、朝廷は上奏文を許可し、大政奉還が成立しました。

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