岩崎弥太郎 伝

岩崎弥太郎

岩崎 弥太郎(いわさき やたろう)
天保5年(1835年) - 明治18年(1885年)

幕末の激動の中を駈け抜け、武士から実業家に転身し三菱を創始した男。 天保5年(1835年)土佐国、井ノ口村(現在の高知県安芸市)の地下浪人の家に生まれ、子供の頃から極貧の中で暮らした。 頭脳明敏で12歳で儒者・小牧米山に弟子入りし、14・5歳になると詩才を発揮するようになったという。

岩崎弥太郎生家・生誕地碑安政元年(1854年)21歳のとき藩士・奥宮周二郎の従者となって江戸へ出、 安積艮斎(あさかごんさい)の門人になった。 帰国後、土佐藩の執政・吉田東洋を知り後藤象二郎と親しく交わる。


海援隊の会計担当に

弥太郎は慶応2年(1866年)には藩の開成館貨殖局に勤務。 同じころ、勝海舟が、薩摩藩の西郷隆盛に龍馬たちの世話を頼み、慶応元(1865)年、長崎に「亀山社中」を設立し、龍馬たちに運営を任せました。

慶応3(1867)年4月、「亀山社中」は、龍馬が脱藩罪を許されたため土佐藩が引継ぎ、場所も隊員もそのままで「海援隊」となりました。龍馬が隊長となりました。その海援隊の会計を担当していたのが岩崎弥太郎です。 海援隊の船は「いろは丸」=45馬力、160トン。伊予大洲藩から海援隊が借り受け初航海に出ましたが、瀬戸内海、讃岐・箱の岬近くで、紀州藩船明光丸(150馬力、887トン)と衝突して沈没しました。この時、後藤象二郎、龍馬、そして弥太郎が交渉にあたり、結果、紀州藩が7万両の賠償金を支払う事で事件(いろは丸事件)は決着しました。その交渉の攻防戦は激しいものがあったそうです。 しかし、弥太郎が紀州藩が支払いに応じた知らせを聞いたころ、龍馬は近江屋で中岡慎太郎とともに暗殺されたとの知らせが入ったころだったという。

維新後~三菱の創業~

岩崎弥太郎像

維新後の明治3年(1870年)10月から九十九商会という海運業を行う私商社の指揮者となりました。
同商会は廃藩置県後1873年に三菱商会と改名し、岩崎弥太郎個人の企業になりました。新政府の軍需輸送を独占して巨利を占め、全国汽船総トン数の73%を手中に収めた。 これと並行して海運業からの多角化によって三菱財閥の基礎を築きました。

岩崎弥太郎生家・土蔵今では誰もが知っている、三菱の「スリーダイヤのマーク」は、土佐藩藩主だった山内家の家紋「三つ葉柏」と岩崎家の家紋「三階菱」をあわせたものだそうです。なるほど、山内家の家紋を遠目で見ると三菱のマークの形をしてますね。。。!

当時の海運業最大手は日本国郵便汽船会社。 態度は大きくいかにも乗せてやるという風情でした。これに対し、新興の三菱は、店の正面におかめの面を掲げ、ひたすら笑顔で応対する。
武士の意識が抜けず笑顔の出来ない者には、弥太郎は小判の絵を描いた扇子を渡し 「お客を小判と思え」と指導したという。

明治10年(1877年)に勃発した西南戦争時には、 三菱の所有する汽船はほとんど軍用船として需要を独り占めにし、 これによって得た運輸代金は1300万円という莫大な額にのぼった。 更に戦争終了後の軍需品の処分でも大きく儲けた。

明治14年(1881年)、三菱の最大の保護者であった大隈重信が失脚し、 弥太郎は三井家の背後にいる井上馨・渋沢栄一を敵に回し、共同運輸会社と死闘を繰り広げた。 そのさなか、健康の衰えにより明治18(1885年)年2月7日50歳で没した。

なお弥太郎の娘婿から加藤高明及び幣原喜重郎の2人の内閣総理大臣を輩出している。単に財閥家族と血縁関係にあったり財閥の娘婿というだけの首相は他にもいるが、財閥創業者の娘婿が2人も首相になった例は他の財閥にはなく、三菱と国家の密接な関係を証明しているといえる。

日本ではじめてのボーナス

明治9年3月、世界最大の海運会社である英国のピー・アンド・オー社が、 上海・横浜航路のみならず大阪・東京航路にまで進出してきた。
熾烈(しれつ)な価格競争、新興日本のナショナルフラッグ三菱、早くも危うし。
三菱は大胆なリストラと徹底的な経費削減を実施。 社員は弥太郎社長自身の50%減給宣言にならって給与の3分の1を返上した。 陸上の事務員も海上の船員も、一丸となって顧客確保と安全運航にあたった。必死の防戦6カ月。9月に至り、ついにピー・アンド・オー社は上海・日本航路からの撤退を決めた。
弥太郎はこのビジネス戦争の勝利は社員の奮闘の賜(たまもの)であるとして、 各人の働きを上中下に査定した上で年末に賞与を支給することにした。
この金額はそれぞれほぼ1カ月分の給与にあたる。いわゆる特別ボーナスですね!

なお、これで年末賞与が制度化されたわけではない。 毎年支給されるようになったのは、「三菱社誌」で見るかぎりでは明治21年からである。
三菱以外の会社でどうだったのかは不明だが、三井には適当な記録がなく、 住友では明治15年制定の「住友家法」に『賞与例規定』があるとのことである。また、「岩波小辞典労働運動」の『一時金』の項では、 明治時代官公吏に会計年度末の決算の余剰金を配分する慣習があったがそれを民間がまねたと説明している。
いずれにせよ、明治以降の近代的会社組織において、 はじめてボーナスを支給したのは、社員の奮闘に報いようとした岩崎弥太郎である可能性は高いといえる。

参考ページ:三菱広報委員会

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