維新後の土佐藩

薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結び倒幕運動を推し進めていた幕末も大詰めの時期、公議政体論を主張し将軍の政権返上を政治路線として考えていた土佐藩は、1867年(慶応3年)10月3日に将軍・徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出しました。

慶喜は京都・二条城に在京諸藩の藩主・家老職を招集し、そこでの会議で大政奉還の上奏文の提出を決定、11月9日(旧暦10月14日)に朝廷へ上奏文を提出しました。 そして翌11月10日(旧暦10月15日)、朝廷は上奏文を許可し、大政奉還が成立しました。

土佐藩から新政府には後藤象二郎や板垣退助らの人材が入り、五箇条の誓文を草案した福岡孝弟(藤次)も参与、山内容堂が内国事務総裁に任じられ、土佐勤王党からも田中光顕や新海援隊隊長長岡謙吉らが新政府に出仕しています。 新政府は中央集権を目指し明治元年10月、各藩を地方機関として明治2年には薩摩・長州・土佐・肥前の四藩連署で版籍奉還。

旧藩主は藩知事となり、公卿と諸侯は華族、藩士は士族と称されるようになりました。
明治3年閏10月、板垣退助は高知藩大参事に就任すると、福岡孝弟と共に『人民平均の制度』を推し進め、士族の無礼討ち禁止や廃刀勝手次第、平民の馬上往来などの制限廃止などを定めました。

急激な改革に士族の強い反対がありましたが、山内容堂や知事山内豊範らの支持もあり板垣らは改革を推進していきます。また朝廷の軍隊・親兵献上が決定し、明治4年6月に薩長土三藩から親兵約800名が東京に集結して新政府は軍事面の強化をはかりました。
しかしその頃には財政面は悪化する一方で、全国の貢租を政府へ集めるべく廃藩置県の動きが起こりはじめたのです。

各藩は幕末から多大な出費が続き膨大な赤字財政を抱え、統治力も衰えていた事もありこの案に反対する意見もなく廃藩置県は受け入れられ約700年続いた封建制度は終わりを迎えます。しかし急激な改革は士族に不満を抱かせ、全国で士族の反乱が起こる結果にもなりました。

明治4年7月の廃藩置県により、旧土佐国を県域として成立。 高知は土佐藩山内氏の城下町で、山内氏による大高坂山へ の築城により、河中山(こうちやま)と名付けられたが、水害に苦しめられるため河中の文字を嫌い、高智山、高知と改められました。