長宗我部元親 伝

長宗我部元親

長宗我部 元親(ちょうそかべ もとちか)
天文8年(1539年) - 慶長4年5月19日(1599年7月11日)

戦国時代・安土桃山時代の戦国大名

土佐(現在の高知県)の長宗我部氏21代当主。長宗我部国親の嫡男、母は美濃の斎藤氏の娘で、自らの正室も斎藤氏から迎える。幼名は弥三郎、法名雪蹊恕三、官位は宮内少輔、土佐守。姓名での名乗りは秦 元親(はたの もとちか)。兄弟は吉良親貞、香宗我部親泰、島弥九郎親益。子に信親、親和(香川五郎次郎)、親忠(津野孫次郎)、盛親、右近大夫、康豊(吉田氏)がいる。

幼少の頃は色白でおとなしく、軟弱な性格から「姫若子」と皮肉られていたと伝わる。後に土佐一国を統一する大名に成長し、土佐の出来人と呼ばれたが、信長からは鳥なき島の蝙蝠と揶揄された。

1560年に父に従って出陣した長浜の戦い(高知市)では、遅い初陣ながらも、自ら槍を持って突撃するという勇猛さを見せたといわれる。同年、父の急死により家督を相続し第21代目の当主となった。今や姫若子ではなくなった元親を、家臣らはもちろんのこと、父も臨終の際に「元親の振る舞いや武者遣いには、もはや何の問題も無い。」と誉め称え、全幅の信頼を寄せてこの世を去った。元親は、父の成し得なかった宿敵・本山氏の打倒を第一の目標とし、長宗我部氏のさらなる繁栄を目指し、家臣らと一丸となり邁進することを固く誓った。

その後は四国統一を目指して勢力拡大に励む。1563年には斉藤氏、1568年には宿敵・本山氏、1569年には安芸氏、1571年には土佐一条氏の家臣であった津野氏をそれぞれ滅ぼし、1574年には一条氏の当主・一条兼定を追放して土佐をほぼ制圧した。翌年、兼定が再起を図って土佐に攻め込んできたとき、一時、窮地に追い込まれたが弟の吉良親貞の尽力のもと、渡川の戦い(四万十川の戦い)でこれを撃破し、土佐を完全に統一した。

その後、中央で統一事業を進めていた織田信長と同盟を結び、伊予(愛媛県)や讃岐(香川県)、阿波(徳島県)へ侵攻していく。その統一事業には紆余曲折があり、困難を極めたが、その頃の四国の情勢が畿内の権力抗争に派兵を重ね疲弊しきった阿波、反三好派と親三好派の摩擦が大きくなり基盤が崩壊しつつあった讃岐、河野氏を中心に多豪族間、国人領主間の抗争の絶えない伊予…という具合にそれぞれが統一感の無い状態であった事が幸いした。つまりその不安定さ故に、複数の権力者相手に右往左往していた各地の豪族たちを外交と謀略によって組み込み、その主家を内部崩壊(または降伏)へと導く、といった手段が容易に功を奏したのである。また、畿内で版図を拡大していた織田信長とも誼を通じ、その勢力は着々と四国全土に及んでいった。

しかし信長はこの動きを良しとせず、1582年に盟約を反古し、四国征伐を決意する。しかし同年、本能寺の変が起こり横死、四国征伐軍も解体する。元親はその機に乗じて再び勢力拡大に着手。旧織田家家臣の柴田勝家や、有力大名の徳川家康らとも結んで信長の実権を継いだ羽柴秀吉に対抗しつつ、宿敵であった十河存保を中富川合戦で撃破し阿讃の覇権を掌握。

1585年には伊予を制圧、伊予西部に残存勢力を残しつつも四国全土をほぼ統一することに成功した。だがその頃秀吉の覇権は確固たるものになっており、四国征伐の準備も整っていた。統一から秀吉との戦いまでには数週間ほどの時間しか残されていなかった。

同年、豊臣秀吉の四国征伐が行われ10万を超える軍が派遣されると、元親は阿波白地城を本拠に阿讃伊の海岸線沿いに防備を固め抵抗する。秀吉は宇喜田秀家率いる軍勢を讃岐へ、小早川隆景、吉川元長率いる軍勢を東予へ、羽柴秀長、秀次率いる軍勢を阿波へと同時に派遣し、土佐方の城を相次いで落城させていく。そして阿波戦線が崩壊して白地城までの道が裸に晒されると、元親は反戦派の家臣、谷忠澄の言を入れ降伏。長宗我部家は阿波、讃岐、伊予を没収され、土佐一国のみの領有を安堵される。

翌1586年には秀吉の九州征伐に嫡男の信親とともに従軍し、大友氏の救援に向かう。しかし、12月、豊後戸次川の戦いで四国勢の大将仙石秀久は元親や十河存保らの言を容れず島津勢の策にはまり敗走。このときの乱戦において信親は討死してしまう。信親の死が元親に与えた影響は大きく、人が変わったように以後多くの行動で精彩を欠き、将来における長宗我部家滅亡の遠因をばらまいた。

1588年には本拠を大高坂城へ移転、その後に起こった家督継承問題では次男親和、三男親忠を差し置いて四男盛親に家督を譲ることを決定するも、それを良しとしない比江山親興、吉良親実らに死を命じるなど内部粛清を行い盛親の譲位を強行している。

1590年の小田原征伐では水軍を率いて参加。1591年には本拠を浦戸城へ移転。1592年からは秀吉が行った朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも従軍する。1596年にはサン=フェリペ号事件に対処し、秀吉によるキリスト教迫害の引き金を作った。領内では検地を行い、分国法である『長宗我部元親百箇条』を制定(教科書で長宗我部元親といえばこれのみが知られる)。

1599年、秀吉の死去により政情が不安定になるという大事の中で、病のために伏見屋敷にて死去、享年61。

墓所は高知県高知市に伝わるが、急峻な丘の斜面にあって周囲山林の手入れが行き届いておらず、崩壊の危機に直面している。
⇒長宗我部元親初陣像・墓所について、詳しくはこちらをご覧ください。

長宗我部元親 年表

1539年 土佐・岡豊城に生まれる。
1560年 長浜・戸ノ本の戦いにて初陣。
1563年 美濃斉藤氏に娘と婚儀。
1568年 宿敵・本山氏を滅ぼす。
1574年 土佐中村の一条兼定を豊後に逐う。
1575年 再起の一条兼定を破り、土佐を統一。
1576年 阿波の白地城を奪取。
1582年 対立中の織田信長が本能寺の変で死去。阿波一国を平定。
1584年 讃岐一国を平定。
1585年 春、四国全土をほぼ制覇。
6月、豊臣秀吉の四国征伐命下る。
8月、元親、秀吉の軍門に降り、土佐一国に封じ込められる。
1586年 秀吉の九州平定戦に従軍。戸次川の戦いで、長男・信親が討死。
1587年 長宗我部検地始まる。
1588年 居城を大高坂城に移転・家督を四男 盛親に譲る。
1590年 小田原攻めに参陣。
1591年 居城を浦戸城に移転。
1592年 朝鮮出兵に従軍(文禄の役)。
1596年 サン・フェリペ号事件が起こる。
1597年 朝鮮出兵に従軍(慶長の役)。 「長宗我部元親百箇条」を制定、領国統治の法典とする。
1599年 京・伏見で死去。


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