武市半平太 伝

武市 半平太(たけち はんぺいた)
1829年9月27日 - 慶応元年(1865年5月11日)

半平太は通称、諱は小楯(こたて)、号は瑞山(ずいざん)。
※諱(いみな)とは現在の実名にあたり、戸籍上の名前です。武士は元服の際にこの名前をつけますが昔の日本では習慣として普段は実名を避け通称で呼んでいたようです。

幕末の志士。土佐勤王党の党首だった。

坂本龍馬とは遠縁にあたる白札(郷士のさらに上の位の武士で上士と同じ待遇を受けた)。

1829年9月27日、土佐国長岡郡仁井田郷吹井村に生まれる。 通称を半平太、実名が小楯、号を瑞山と言いました。幼い頃から学問と武芸に励み、文武両道の人でした。叔父と槍剣道場を開き、藩内東部に剣道出張指南として赴くなど、 剣術に励みました。その後江戸に出、桃井春蔵に入門。翌年には塾頭となったほどでした。瑞山は詩歌をたしなんだり、また美人画も巧みであったという。

そして安政の大獄、桜田門外の変などを機に尊攘運動が激化していきます。瑞山は土佐に帰国し、桜田門外の変の翌年に、郷士をはじめとする下級武士や、村役人層を中心とした土佐勤王党を結成。その党首となりました。その盟約に応ずるものが200人近くに及び、藩体制に大きな影響を与えました。

しかし尊皇攘夷論を唱える瑞山は、公武合体論を奉ずる藩主容堂や吉田東洋と対立してしまいます。一藩勤王を目指す瑞山は、熱狂的天皇崇拝者でありました。当時藩政を握っていたのは、藩主からも厚く信頼を受けていた吉田東洋であった。一藩勤王を実現させたい瑞山は参政吉田東洋を暗殺し、藩論を勤皇に一変させた、かに見えた。京都を中心に活躍をし、勢力を保っていたかに見えた尊皇攘夷派ですが、次第に国政は開国へ向いつつありました。そして8月18日の政変により、勤王党の弾圧が始まりそれは次第に強まっていきました。藩内は再び公武合体論へと傾いていたのです。

土佐藩主・山内容堂による勤王党弾圧で、勤王党員は捕らえられ、藩命により切腹を命じられました。そしてついに瑞山も捕らえられ、一年半余投獄されていました。吉田東洋暗殺を否定し続けていた瑞山ですが、岡田以蔵の自白により切腹を決定づけられたのでした。(参考:岡田以蔵

そして慶応元年(1865年)5月11日切腹させられました。37歳でした。その切腹はそれはみごとだったと語られています。

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